私小説「逆さに吊るされた男」の執筆にあたって

田口ランディから読者のみなさまへ

 

この作品は、二十数年前にオウム真理教という教団が起こした「地下鉄サリン事件」を題材にしています。私は地下鉄サリン事件の実行犯で確定死刑囚のYさんと現在も文通や面会を通じて交流をしています。日本では死刑が確定した段階で、外部の人間との交流が制限されます。現在、Yさんはご家族以外では私を含めて3人との交流しか認められておりません。理由は死刑囚の心の平安のため、と拘置所側は説明をしています。私は死刑が確定する以前に知人を経由してYさんを紹介され、面会に行きました。それから文通が始まり、死刑が確定した時に「外部交流者」として交流を続けることを依頼され、現在に至ります。面会や文通を続けるなかで、オウム真理教という教団、そして事件に興味をもちました。しかし、それを作品にして書くという気持ちにはなれませんでした。社会を揺るがした大事件ですし、自分が扱うにはあまりにも大きなテーマで、とても描くことができないだろうと感じていたからです。被害者の方も多いですから、この題材で執筆することへの怖れもありました。

2011年がひとつの転機でした。逃亡していた元オウム信者が警察に出頭し、再び始まったオウム裁判を傍聴する機会を得ました。私はそれまでオウム裁判の傍聴は一度しかしたことがありませんでした。事件当時から時を経て、法廷で繰り広げられた出来事に衝撃を受け、このような現実をどうにかして描いてみたいと感じるようになりました。作品執筆にあたってはたいへん多くの方々に、情報提供、アドバイスをいただきました。しかし、もっとも協力してくれたのは事件の当事者である死刑囚のYさんでした。Yさんは死刑が確定してから静かに贖罪の日々を送っておられ、再び世間の注目を浴びることはまったく望んでいませんでした。ですから、この作品はYさんの承諾なしに発表することはできませんでした。およそ一年の間、Yさんはこの作品を世に出すことに対して苦悶され、私も悩みました。出版までに長いブランクがありました。こうして、出版ができたのは多くの証言を寄せてくれたYさんの承諾があってのことです。

この小説は事実を基にしていますが、あくまでフィクションです。私は事件を見ていないし、きわめて当事者性の薄い人間です。オウム真理教についても間接的にしか知りません。ですから、想像や仮説で描いた部分が多々あります。また、実在しない方を登場させています。あくまで小説として読んでいただければ幸いです。そして、死刑囚となった人たちが、処刑の日が来るまで拘置所でどのように生活しているのか、その一端を知っていただければ、と思っています。

執筆にあたって、オウム裁判を傍聴し続けていた故佐木隆三先生に多くのアドバイスをいただきました。先生は昨年の10月31日にお亡くなりになりました。作品を読んでいただけなかったことが残念です。あらためて佐木先生に深くお礼を申し上げます。

田口ランディ

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